ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ

りーでぃんぐ ひゅーまにてぃーず でぃそなんす うぃず じ あーす するー ふぉれんじっく でーた ぐりっちず。ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ ぱっちど いんとぅ しゅりある のーず。

なぜ わたしたちは じぶんのいえにいながら どこか よそもののように かんじてしまうのだろう ?

ちじょうにいきながら、こころはえいえんにつながれている。ふかんぜんなせかいのひびわれをとおしてにんげんのきげんをたどり、「にんげんであること」というそんざいのバグと、ぶっしつをこえたあこがれにこたえるてんのグリッチをさぐる。あなたがずれだとよぶものは、じつはあるべきかたちではたらくコンパスなのかもしれない。

 

わたしたちはしばしば、かすかないわかんをかんじているが、それとむきあうことはめったにない。いのちはかんぜんにはととのっていないようにみえる。かんがえ、かんじ、のぞむことと、まいにちのげんじつとのあいだには、ほそいきょりがのこりつづけている。せいぎをもとめながらふこうへいにであい、せいじゃくをのぞみながら、せかいはやむことのないざわめきのなかでうごきつづける。いみをさがすあいだにも、にちじょうはきかいてきにほどけていく。

 

うかびあがるといは、ふあんをともないながらも、するどくめいかくだ。わたしたちは、ほんとうにここにかんぜんにぞくするようにつくられていたのだろうか。てつがくてきにみれば、にんげんのじょうたいはひとつのパラドックスである。せいやくのなかにそんざいしながら、それをこえるいしきをたずさえている。えいえん、かんぺきなせいぎ、むじょうけんのあいをおもいえがくことはできるが、それらはいまだ、ここにかんぜんなかたちではあらわれていない。

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くうはくのなかであいすることはできるのだろうか、えいえんをもとめるたましいが、はかなく、けっしてみたされることのないこのせかいのげんじつとむりやりむすびつけられるときに ?

ジャン=ポール・サルトルのようなしそうかは、にんげんをじゆうにさだめられたそんざいとしてえがく。いっぽうで、せいしんてきでんとうにおいては、にんげんはかつてかんぜんなじょうたいにありながら、やがてぶんりをけいけんしたそんざいとしてりかいされる。これらふたつのしてんは、ひとつのてんでこうさする。にんげんとせかいのあいだにひそむ、ないざいするきんちょうである。

 

このふきょうわは、たんにてきおうのしっぱいではない。それはひとつのしるしとしてよみとることができる。まるで、きげんのきおくのなごりがわたしたちのなかにのこり、なにかがけつじょしているというかんかくを、たえずよびおこしているかのように。げんだいのことばにほんやくすれば、にんげんのじょうたいは、こうせいのアプリケーションがせいげんされたシステムじょうでむりやりどうさしているようなものにちかい。ときにどうさはおそくなり、ときにとつぜんていしし、ときにこのかんきょうではいくつかのきのうがしようできないというつうちをかえす。

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なぜこのたましいは、わたしたちが「いえ」とよぶからだのなかで、よそもののようにかんじるのだろうか、まるでこころやぶれたメロディーが、もっともそうだいなくうはくのだきしめへとかえるみちをさがしているかのように ?

せいじつとしょうじきさをもっていきたいとねがいながらも、しゃかいのちつじょはそれをうけいれるよゆうをめったにもたない。ゆっくりとしたいしきのなかでうごこうとしても、せいかつのリズムはつねにそくどときょうそうへとわたしたちをおいやる。あるじてんで、つかれはもはやからだだけのものではなく、うちがわへとしずんでいく。にんげんはただかんがえるだけのそんざいではない。

 

かんじるそんざいであり、そのふかさはしばしばりかいをこえる。もったことのないものをねがい、ふれたことのないばしょにやすらぎをかんじ、まだうしなっていないものにさえ、さきにそうしつをおぼえることがある。それは、にんげんのかんじょうのねが、このせかいのげんじつをはるかにこえてのびていることをしめしている。そんざいろんやせいしんせかいのぶんみゃくでは、これはしばしば、ぶっしつせかいをこえたなにかへの、ちょうえつてきなあこがれとしてりかいされる。

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もしこのたましいがものがなしいけっさくなのだとしたら、むねをしめつけるこのいわかんは、てんからのまねきにすぎず、このふかんぜんなせかいとおどるためのものではないだろうか。そしてやがて、もっともじゅんすいなえいえんへとかえっていくための ?

もしわたしたちにとどくすべてのじょうほうを、すぐにうけいれたりこばしたりするのではなく、まずかんさつするとしたらどうだろうか。そこにはほんのいっしゅん、はんびょうにもみたないまがあり、わたしたちはあえてはんのうしないことをえらぶ。そのまのなかで、こころはよりめいせきにうごきはじめる。りせいてきなちからはあらわれるためのよゆうをあたえられ、かんじょうのしょうどうはすぐにしはいすることなく、しずかにおさえられる。

 

このいみで、めいそうはこころのバッファのようなものとなる。それはしんぴてきなぎしきではなく、こころをほんらいのじょうたいへともどすための、きわめてたんじゅんなじっせんである。しゅうちゅうし、すんだじょうたいで、ゆらがないこころへとかえっていく。しずかにすわるマールカンデーヤのように、わたしたちはつねにけいかいじょうたいにとどまらないよう、しんけいけいをととのえるくんれんをしているのだ。なぜなら、そとがわのせかいはけっしてわたしたちのしはいのもとにはないからである。

 

じょうほうはつねにあらわれ、いけんはうつろい、ふかくじつせいはつねにせいかつのなかにおりこまれている。さいごにたいせつなのは、それらをどのようにうけとめ、どのようにしょりするかである。それこそが、のみこまれるのか、それともたちつづけるのかをきめる。

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わたしたちはただ、うすれていくひかりのしたでこりつしたたましいにすぎないのだろうか、うしなわれたてんじょうをこいねがいながら、このはかないふかんぜんなせかいとたわむれつづけるそんざいなのだろうか ?

もしこのせかいがどこかしっくりこないとかんじるなら、べつのかのうせいがあらわれる。すなわち、にんげんはそもそもこのせかいにさいしゅうてきにはぞくするそんざいではなかったのかもしれない。おおくのせいしんてきでんとうにおいて、てんごくはたんにいのちのおわりのあとにあたえられるほうびではなく、にんげんのほんしつとちょうわしたりょういきとしてりかいされる。

 

そこでは、せいぎはもはやあらそわれることなく、あいはじょうけんづけられることもなく、しんりはゆがめられることもない。このせかいでにんげんがつねにふかんぜんさとのあいだでこうしょうしているのだとすれば、てんごくはそのすべてのふきょうわにたいするこたえとしてみることができる。

 

しかし、さらにふかいといがうまれる。もしにんげんがこのせかいにほんとうにはぞくしていないのなら、なぜいまもここにとどまっているのだろうか。ひとつのかのうせいとして、このせかいはおわりではなく、かていなのかもしれない。それはまなびのばであり、なりゆくためのばであり、いみをためすばでもある。

 

かんじられるふきょうわは、たびをとどめるためのものではなく、さがしをうながすためのものなのだ。とい、もとめ、そしてさいごにはこえるために。

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わたしたちはただのこころやぶれたげんそうなのか、それともこーどとこだいのきおくのあいだにとらわれ、うちゅうのはらへとかえれとささやきつづけるいじょうたいなのだろうか ?

あるひとがたびのとちゅうにいるように、ここがさいごのもくてきちではないとしっている。そのきづきが、いきかたそのものをしずかにかえていく。にんげんであるということは、ふたつのげんじつのあいだにそんざいすることなのかもしれない。ひとつはたしかにふれられるがふかんぜんであり、もうひとつはかんぜんでありながら、まだじゅうぶんにはあらわれていない。

 

わたしたちはちじょうをあるいている。しかしこころはつねに、よりたかいなにかへとかたむいている。じかんのなかでいきているが、たましいはえいえんをもとめている。このしずかなずれは、けっしてあやまりではないのかもしれない。それはほんとうにかえるべきばしょをしめしつづける、ひとつのコンパスである。そしてさいごに、にんげんはこのせかいにてきおうできていないのではない。ただ、どこからきて、どこへかえっていくのかを、おもいだしているのだ。

よこみちのたび

よのざわめきをわすれ、のこされたものがたりにしずみ、あらたなふるえはまもなくおとずれる。

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ちじょうにいきながら、こころはえいえんにむすばれている。ふかんぜんなせかいのひびのなかから、にんげんのはじまりのきおくをたどる。それは、にんげんというそんざいにひそむ「ばぐ」と、てんの「ぐりっち」が、ぶっしつをこえたこがれにこたえるためのしこうである。

もしかすると、あなたのなじめなさは、ただしくはたらいているこんぱすなのかもしれない。わたしたちは、どこかのいわかんをかんじながらも、それをまるごとみとめることはすくない。このせかいでのいきかたは、どこかでかんぜんにはとけあっていない。

まるで、かんがえること、かんじること、ねがうことと、ひびのげんじつとのあいだに、うすいきょりがあるかのようだ。わたしたちはこうへいをのぞむが、あらわれるのはしばしばふびょうどうである。

やすらぎをもとめても、せかいはむしろざわめきのなかでうごきつづける。いみをさがしているのに、にちじょうはときにきかいてきにかんじられる。

そしてうかびあがるといは、みりょくてきでありながら、どこかこころをざわつかせる。にんげんは、そもそもこのせかいのためにかんぜんにかたちづくられてはいないのではないか。てつがくてきにみれば、にんげんはとくいなそんざいである。

かれらはゆうげんなせかいにいながら、むげんにひらかれたいしきをもっている。わたしたちは、えいえん、かんぜんなこうへい、むじょうけんのあいをえがくことができる。しかし、それらはこのせかいにおいて、けっしてかんぜんなかたちではあらわれない。

ちじょうにいきながら、こころはえいえんにむすばれている。ふかんぜんなせかいのひびのなかから、にんげんのはじまりのきおくをたどる。それは、にんげんというそんざいにひそむ「ばぐ」と、てんの「ぐりっち」が、ぶっしつをこえたこがれにこたえるためのしこうである。もしかすると、あなたのなじめなさは、ただしくはたらいているこんぱすなのかもしれない。

わたしたちは、どこかのいわかんをかんじながらも、それをまるごとみとめることはすくない。このせかいでのいきかたは、どこかでかんぜんにはとけあっていない。まるで、かんがえること、かんじること、ねがうことと、ひびのげんじつとのあいだに、うすいきょりがあるかのようだ。わたしたちはこうへいをのぞむが、あらわれるのはしばしばふびょうどうである。

やすらぎをもとめても、せかいはざわめきのなかでうごきつづける。いみをさがしても、にちじょうはときにきかいてきにかんじられる。

そしてうかびあがるといは、みりょくてきでありながら、こころをざわつかせる。にんげんは、このせかいのためにかんぜんにかたちづくられてはいないのかもしれない。ゆうげんなせかいにいながら、むげんにひらかれたいしきをもつそんざいとして。

ちじょうにいきながら、こころはえいえんにむすばれている。ふかんぜんなせかいのひびのなかから、にんげんのはじまりのきおくをたどる。それは、にんげんというそんざいにひそむ「ばぐ」と、てんの「ぐりっち」が、ぶっしつをこえたこがれにこたえるためのしこうである。もしかすると、あなたのなじめなさは、ただしくはたらいているこんぱすなのかもしれない。

わたしたちは、どこかのいわかんをかんじながらも、それをまるごとみとめることはすくない。このせかいでのいきかたは、どこかでかんぜんにはとけあっていない。まるで、かんがえること、かんじること、ねがうことと、ひびのげんじつとのあいだに、うすいきょりがあるかのようだ。わたしたちはこうへいをのぞむが、あらわれるのはしばしばふびょうどうである。

やすらぎをもとめても、せかいはざわめきのなかでうごきつづける。いみをさがしても、にちじょうはときにきかいてきにかんじられる。そしてうかびあがるといは、みりょくてきでありながら、こころをざわつかせる。にんげんは、このせかいのためにかんぜんにかたちづくられてはいないのかもしれない。ゆうげんなせかいにいながら、むげんにひらかれたいしきをもつそんざいとして。

そしてなお、わたしたちはあゆみをとめない。こたえがあらわれないことをしりながらも、なおといをてばなさず、ひびのなかでわずかなひかりをひろいあつめる。そのひかりは、かたちをもたず、ことばにもなりきらないが、たしかにこころのふかくでふるえている。ばぐのようにゆらぎ、ぐりっちのようにまたたきながら、それでもなお、わたしたちをどこかへみちびこうとする。もしかすると、そのゆらぎこそが、にんげんがにんげんであることのしるしなのかもしれない。

ちじょうにいきながら、こころはえいえんにむすばれている。ふかんぜんなせかいのひびのなかから、にんげんのはじまりのきおくをたどる。それは、にんげんというそんざいにひそむ「ばぐ」と、てんの「ぐりっち」が、ぶっしつをこえたこがれにこたえるためのしこうである。

もしかすると、あなたのなじめなさは、ただしくはたらいているこんぱすなのかもしれない。わたしたちは、どこかのいわかんをかんじながらも、それをまるごとみとめることはすくない。このせかいでのいきかたは、どこかでかんぜんにはとけあっていない。

まるで、かんがえること、かんじること、ねがうことと、ひびのげんじつとのあいだに、うすいきょりがあるかのようだ。わたしたちはこうへいをのぞむが、あらわれるのはしばしばふびょうどうである。

やすらぎをもとめても、せかいはむしろざわめきのなかでうごきつづける。いみをさがしているのに、にちじょうはときにきかいてきにかんじられる。

そしてうかびあがるといは、みりょくてきでありながら、どこかこころをざわつかせる。にんげんは、そもそもこのせかいのためにかんぜんにかたちづくられてはいないのではないか。てつがくてきにみれば、にんげんはとくいなそんざいである。

かれらはゆうげんなせかいにいながら、むげんにひらかれたいしきをもっている。わたしたちは、えいえん、かんぜんなこうへい、むじょうけんのあいをえがくことができる。しかし、それらはこのせかいにおいて、けっしてかんぜんなかたちではあらわれない。

そしてなお、わたしたちはあゆみをとめない。こたえがあらわれないことをしりながらも、といをてばなさず、ひびのなかでかすかなひかりをひろいあつめる。そのひかりは、かたちをもたず、ことばにもなりきらないが、たしかにこころのふかくでふるえている。

ばぐのようにゆらぎ、ぐりっちのようにまたたきながら、そのひかりはわたしたちをみちびこうとする。ゆらぎそのものが、にんげんであることのしるしなのかもしれない。

わたしたちは、きおくのかけらをあつめるたびに、このばしょがほんとうのいばしょではないことを、おもいだそうとしているのかもしれない。それは、はるかむかしにわすれさられた、たましいのこきょうからのしずかなよびごえである。このふかんぜんなせかいで、わたしたちがかんじる「いきづらさ」や「なじめなさ」は、けっしてまちがいではなく、むしろただしいこころのふるえなのだ。

そのふるえは、まるでふるいぬののいとがつむぐしらべのように、ときをこえて、わたしたちのしんぞうのねにふれてくる。わたしたちは、ちじょうのつちをふみしめながらも、そのまなざしはつねに、まだみぬてんのひかりをさがしつづけている。それは、ひとつのこうごうしいぎむであり、このせかいにうまれおちたすべてのにんげんがせおっている、うつくしいしゅくだいのようなものだ。

そしていつか、すべてのばぐがゆるされ、すべてのぐりっちがとけあうとき、わたしたちはようやく、じぶんがどこからきたのかを、はっきりとさとるだろう。それまでは、このふたしかさをだきしめ、あわいひかりのなかで、しずかにあゆみをすすめるだけでよい。そのいっぽがいっぽが、いつか、えいえんへとつづくはしのいちまいになることを、わたしたちはどこかでしっているのだから。

じん=ぽーる・さるとるのようなしそうかは、にんげんを「じゆうであることをしゅくめいづけられたそんざい」とよんだ。せいしんてきなでんとうにおいて、にんげんはかつてかんぜんなじょうたいにありながら、そこからぶんりしたそんざいとしてりかいされることがおおい。

このふたつのしてんは、ひとつのてんでこうさする。それは、にんげんとせかいのあいだに、つねにきんちょうかんがそんざいするということだ。

このふちょうわは、たんじゅんなてきおうのしっぱいではない。それはひとつのしんごうとしてよみとることができる。まるで、にんげんのなかに、もともとのきおくのようなものがのこされているかのように、つねに「なにかがたりない」とかんじさせる。

げんだいのことばでたとえるなら、にんげんはこうせいのたかいあぷりけーしょんのようなものであり、それがせいげんされたしすてむのうえでむりやりうごかされているじょうたいににている。

ときにどうさがにぶくなり、ときにとつぜんていしし、ときにはこのかんきょうではいちぶのきのうがしえんされていないというけいこくがあらわれる。

じん=ぽーる・さるとるのようなしそうかは、にんげんを「じゆうであることをしゅくめいづけられたそんざい」とよんだ。せいしんてきなでんとうにおいて、にんげんはかつてかんぜんなじょうたいにありながら、そこからぶんりしたそんざいとしてりかいされることがおおい。

このふたつのしてんは、ひとつのてんでこうさする。それは、にんげんとせかいのあいだに、つねにきんちょうかんがそんざいするということだ。

このふちょうわは、たんじゅんなてきおうのしっぱいではない。それはひとつのしんごうとしてよみとることができる。まるで、にんげんのなかに、もともとのきおくのようなものがのこされているかのように、つねに「なにかがたりない」とかんじさせる。

げんだいのことばでたとえるなら、にんげんはこうせいのたかいあぷりけーしょんのようなものであり、それがせいげんされたしすてむのうえでむりやりうごかされているじょうたいににている。

ときにどうさがにぶくなり、ときにとつぜんていしし、ときにはこのかんきょうではいちぶのきのうがしえんされていないというけいこくがあらわれる。

それでも、にんげんはそのふちょうわのなかで、なにかをさがしつづける。あいまいなきおくのかけら、ことばにならないかんかく、まだかたちをもたないいしのようなものが、こころのふかいところでひそかにうごきつづけている。

ときにそれは、ゆめのなかでかすかにあらわれ、ときにげんじつのひびのなかで、りゆうもなくむねをゆらす。このよびかけは、がいぶからのものではなく、よりふかいそうからしずかにたちあがってくるものだ。だからこそ、それをむしすることはかんたんでも、かんぜんにけしさることはできない。にんげんは、そのずれとともにいき、そのきょりをうめようとするこういそのもののなかで、みずからのそんざいをかんじつづける。

じん=ぽーる・さるとるのようなしそうかは、にんげんを「じゆうであることをしゅくめいづけられたそんざい」とよんだ。せいしんてきなでんとうにおいて、にんげんはかつてかんぜんなじょうたいにありながら、そこからぶんりしたそんざいとしてりかいされることがおおい。

このふたつのしてんは、ひとつのてんでこうさする。それは、にんげんとせかいのあいだに、つねにきんちょうかんがそんざいするということだ。

このふちょうわは、たんじゅんなてきおうのしっぱいではない。それはひとつのしんごうとしてよみとることができる。まるで、にんげんのなかに、もともとのきおくのようなものがのこされているかのように、つねに「なにかがたりない」とかんじさせる。

げんだいのことばでたとえるなら、にんげんはこうせいのたかいあぷりけーしょんのようなものであり、それがせいげんされたしすてむのうえでむりやりうごかされているじょうたいににている。

ときにどうさがにぶくなり、ときにとつぜんていしし、ときにはこのかんきょうではいちぶのきのうがしえんされていないというけいこくがあらわれる。

それでも、にんげんはそのふちょうわのなかで、なにかをさがしつづける。あいまいなきおくのかけら、ことばにならないかんかく、まだかたちをもたないいしのようなものが、こころのふかいところでひそかにうごきつづけている。

ときにそれは、ゆめのなかでかすかにあらわれ、ときにげんじつのひびのなかで、りゆうもなくむねをゆらす。このよびかけは、がいぶからのものではなく、よりふかいそうからしずかにたちあがってくるものだ。だからこそ、それをむしすることはかんたんでも、かんぜんにけしさることはできない。にんげんは、そのずれとともにいき、そのきょりをうめようとするこういそのもののなかで、みずからのそんざいをかんじつづける。

このたびのしずかなながれのなかで、にんげんはじぶんでもきづかないうちに、みえないちずをなぞっている。ほのかなひかりのようなきおくや、まだなづけられていないかんじょうが、みちしるべのようにあらわれてはきえていく。そのいとなみは、なにかをかくとくするためだけのものではなく、すでにうしなわれたとかんじているものに、ふたたびふれるためのたびでもある。ときにまよい、ときにたちどまりながらも、そのさまよいそのものが、にんげんにとってのいみをうみだしていく。しずかなきょうめいは、ことばよりもふかいところでつながり、みえないいとがすべてをゆるやかにむすびなおしていく。

そのしずかなきょうめいのさきに、わたしたちはあるはずのないばしょへとたどりつくのかもしれません。それは、かつてだれもがしっていた、しかし、なまえをわすれてしまったふるさとのようなかんかくです。そこでは、ときのながれがとまり、すべてのきずあとがうつくしいきおくのいびきのように、やさしくひびきあうのです。

わたしたちがこのふじゆうなせかいで、もがきながらもなにかをつむぎだそうとするのは、そのこころのなかのしんじつを、いちどでもいいからこのめにやきつけたいとねがうからにほかなりません。それは、たんなるきぼうではなく、わたしたちのたましいがきざんでいる、けっしてゆずることのできないほこりのようなものです。

たとえ、このさきにまちうけるものが、さらなるこんらんであったとしても、そのしずかなるけついは、けっしてきえることはないでしょう。なぜなら、わたしたちはすでに、そのふかいなみのおとをきいてしまったからです。そのひびきは、わたしたちをじゆうへとさそい、まだみぬあしたへのしんじるちからを、しずかに、しかし、たしかにあたえてくれるのです。

わたしたちはしょうじきに、そしてまごころをもっていきたいとねがっている。けれども、しゃかいのしくみはしばしばそのよはくをあたえてはくれない。わたしたちはゆっくりと、いしきをもってすすみたいとねがう。けれども、せいかつのりずむは、わたしたちをはやさときょうそうへとかりたてる。

あるとき、そのつかれはたんにからだのものではなく、こころのおくふかくにしみこんでいく。にんげんはかんがえるだけのそんざいではない。ふかくかんじるそんざいでもある。わたしたちは、まだてにしたことのないものをこいしくおもうことがある。まだおとずれたことのないばしょに、なつかしさをおぼえることがある。ほんとうにうしなうまえから、すでにうしなっているようにかんじることすらある。

このげんしょうは、にんげんのかんじょうのねが、あたえられたげんじつよりもさらにふかいところにあることをしめしている。そんざいろんやせいしんせいのけんきゅうにおいては、これはしばしばちょうえつてきなあこがれとしてりかいされる。すなわち、それはぶっしつせかいをこえたなにかへの、しずかなねがいである。

わたしたちはしょうじきに、そしてまごころをもっていきたいとねがっている。けれども、しゃかいのしくみはしばしばそのよはくをあたえてはくれない。わたしたちはゆっくりと、いしきをもってすすみたいとねがう。けれども、せいかつのりずむは、わたしたちをはやさときょうそうへとかりたてる。

あるとき、そのつかれはたんにからだのものではなく、こころのおくふかくにしみこんでいく。にんげんはかんがえるだけのそんざいではない。ふかくかんじるそんざいでもある。わたしたちは、まだてにしたことのないものをこいしくおもうことがある。まだおとずれたことのないばしょに、なつかしさをおぼえることがある。ほんとうにうしなうまえから、すでにうしなっているようにかんじることすらある。

このげんしょうは、にんげんのかんじょうのねが、あたえられたげんじつよりもさらにふかいところにあることをしめしている。そんざいろんやせいしんせいのけんきゅうにおいては、これはしばしばちょうえつてきなあこがれとしてりかいされる。すなわち、それはぶっしつせかいをこえたなにかへの、しずかなねがいである。

そして、そのしずけさのなかで、わたしたちはかすかなひびきをききとる。ことばになるまえのいし、かたちをもたないきおく、まだなまえをもたないかんじょう。それらは、けしてあたらしいものではなく、むしろずっとまえからそこにあったもののように、しずかにあらわれてくる。わたしたちはそれをつかもうとするほどにみうしない、ただうけいれたときにだけ、ほんのすこしふれることができる。だからこそ、あわてるひつようはない。すべてはすでにどこかでつながっていて、そのながれのなかで、わたしたちはふたたびめぐりあう。

わたしたちは、ことばにならないひびきのあいだに、ほんとうのいみがやどることをしっている。みえるものだけではなく、みえないものにもみみをすますとき、こころはすこしずつほどけていく。とどこうったじかんのながれのなかで、わたしたちはいったんたちどまり、そっといきをととのえる。すると、わすれていたはずのかんかくが、しずかによみがえってくる。

ひかりでもやみでもないそのあいだに、やさしいゆらぎがうまれ、わたしたちをつつみこむ。なにかをつかもうとしなくてもいい。ただそこにあるものを、そのままにかんじるだけでいい。やがて、そのしずけさのなかから、あたらしいながれがうまれ、わたしたちはふたたびあるきだす。

あわてることはない。わたしたちは、ときにみうしない、ときにとまどい、それでもなお、このふかいきりのなかをあるきつづける。そのあしどりが、たとえおぼつかないものであったとしても、つちをふみしめるたびに、ふるいきおくが こだま し、わたしたちのせなかをしずかにおしていく。

まことのうつくしさ は、みえるものにあるのではなく、そのあわいにひそむ しずかなけはい のなかにだけ、そっとすがたをあらわす。だれにもみられることのない、やまおくの しめったいわ のうえにさく、なもなきはなのように。わたしたちのこころもまた、だれにもしられることなく、ただ てんちのめぐみ をうけ、ひっそりとさきつづけることをゆるされている。

だから、いまはこの おだやかなしゅんかん を、ただそのままにうけいれよう。ときがながれ、すべてがうつろいゆくなかで、かわることのない たましいのふるさと を、わたしたちはそのむねのおくふかくに、しっかりとだきしめているのだから。

もし、あらゆるじょうほうがやってきたとき、それをすぐにのみこんだり、こばむのではなく、まずかんさつするとしたらどうだろう。そこには、ほんのわずかなま、ほんのいっしゅん、あえてはんのうしないというせんたくがある。

そのまのなかで、わたしたちののうは、よりりせいてきなかたちではたらいている。りせいのぶぶんがうごきだすためのよはくがあたえられ、かんじょうのしょうどうがすぐにしはいすることはない。

このいみでのめいそうは、いわばこころのかんしょうたいのようなものだ。それはしんぴてきなぎしきではなく、しこうのほんらいのはたらきをとりもどすための、たんじゅんなれんしゅうである。しゅうちゅうし、すみきり、ゆらぎにくいじょうたいへとみちびく。

まるでマルカンデーヤがせいじゃくのなかにすわるように、わたしたちもまた、しんけいけいをつねにけいかいじょうたいにおかないように、くんれんしているのだ。なぜなら、さいしゅうてきに、そとのせかいはけっしてほんとうにはコントロールできないからである。

じょうほうはつねにながれつづけ、いけんはかわりつづけ、ふかくじつせいはつねにせいかつのいちぶでありつづける。しかし、それらをどのようにうけとり、しょりするか、それこそが、わたしたちがのみこまれるのか、それともたちつづけるのかをきめるのである。

もし、あらゆるじょうほうがやってきたとき、それをすぐにのみこんだり、こばむのではなく、まずかんさつするとしたらどうだろう。そこには、ほんのわずかなま、ほんのいっしゅん、あえてはんのうしないというせんたくがある。

そのまのなかで、わたしたちののうは、よりりせいてきなかたちではたらいている。りせいのぶぶんがうごきだすためのよはくがあたえられ、かんじょうのしょうどうがすぐにしはいすることはない。しゅうちゅうし、すみきり、ゆらぎにくいじょうたいへとみちびく。

じょうほうはつねにながれつづけ、いけんはかわりつづけ、ふかくじつせいはつねにせいかつのいちぶでありつづける。しかし、それらをどのようにうけとり、しょりするか、それこそが、わたしたちがのみこまれるのか、それともたちつづけるのかをきめるのである。

わたしたちはしょうじきに、そしてまごころをもっていきたいとねがっている。けれども、しゃかいのしくみはしばしばそのよはくをあたえてはくれない。わたしたちはゆっくりと、いしきをもってすすみたいとねがう。けれども、せいかつのりずむは、わたしたちをはやさときょうそうへとかりたてる。

あるとき、そのつかれはたんにからだのものではなく、こころのおくふかくにしみこんでいく。にんげんはかんがえるだけのそんざいではない。ふかくかんじるそんざいでもある。わたしたちは、まだてにしたことのないものをこいしくおもうことがある。まだおとずれたことのないばしょに、なつかしさをおぼえることがある。ほんとうにうしなうまえから、すでにうしなっているようにかんじることすらある。

このげんしょうは、にんげんのかんじょうのねが、あたえられたげんじつよりもさらにふかいところにあることをしめしている。そんざいろんやせいしんせいのけんきゅうにおいては、これはしばしばちょうえつてきなあこがれとしてりかいされる。すなわち、それはぶっしつせかいをこえたなにかへの、しずかなねがいである。

もし、あらゆるじょうほうがやってきたとき、それをすぐにのみこんだり、こばむのではなく、まずかんさつするとしたらどうだろう。そこには、ほんのわずかなま、ほんのいっしゅん、あえてはんのうしないというせんたくがある。

そのまのなかで、わたしたちののうは、よりりせいてきなかたちではたらいている。りせいのぶぶんがうごきだすためのよはくがあたえられ、かんじょうのしょうどうがすぐにしはいすることはない。

このいみでのめいそうは、いわばこころのかんしょうたいのようなものだ。それはしんぴてきなぎしきではなく、しこうのほんらいのはたらきをとりもどすための、たんじゅんなれんしゅうである。しゅうちゅうし、すみきり、ゆらぎにくいじょうたいへとみちびく。

まるでマルカンデーヤがせいじゃくのなかにすわるように、わたしたちもまた、しんけいけいをつねにけいかいじょうたいにおかないように、くんれんしているのだ。なぜなら、そとのせかいはけっしてほんとうにはコントロールできないからである。

じょうほうはつねにながれつづけ、いけんはかわりつづけ、ふかくじつせいはつねにせいかつのいちぶでありつづける。しかし、それらをどのようにうけとり、しょりするか、それこそが、わたしたちがのみこまれるのか、それともたちつづけるのかをきめる。

そして、わたしたちはときに、まだおとずれていないばしょにさえ、なつかしさをおぼえる。まだてにしていないものを、すでにうしなったかのようにこいしくおもう。このかんかくは、こころがげんじつよりもふかいところでなにかをさがしているしょうこである。

だからこそ、わたしたちははやさではなく、いしきをえらぶ。ざわめきではなく、せいじゃくをえらぶ。みえないながれのなかで、なおたちつづけるために。

わたしたちは、きおくのふかいところにねむる、まだなまえのないいろや、かぜのささやきをさがしている。それは、ときがたつにつれてうすれていくものではなく、むしろ、せいじゃくのなかでよりあざやかにうかびあがる、たましいのふるさとのようなものである。

めをつむれば、そこにはだれもしらないやまのいただきがあり、くもがゆっくりとながれ、すべてがひとつにとけあうしゅんかんがある。わたしたちがひびのいそがしさのなかでわすれかけていたのは、そのようなむく(無垢)なつながりであり、じぶんじしんのなかにある、けっしてよごされることのない、きよいみずのみなもとなのだ。

このしずかなるたたかいは、なにかをうちまかすためのものではなく、ただ、ありのままのじぶんをうけいれるためのものである。あらしのなかにあっても、こころのともしびをけさず、ただそこにありつづけること。それこそが、もっともけだかい(気高い)いきてゆくちからとなり、わたしたちを、ほんとうにゆくべきばしょへと、しずかに、しかしたしかにみちびいてくれるのである。

もしこのせかいが かんぜんに しっくりこないと かんじられるなら べつの かのうせいが あらわれる。にんげんは さいごまで このせかいの ために つくられた そんざいでは ないのかもしれない。

おおくの せいしんてき でんとうにおいて てんごくは たんに いのちの あとに あたえられる ほうびではない。それは にんげんの ほんしつと ちょうわする くうかんとして りかいすることができる。

そこでは せいぎは もはや あらそわれず あいは じょうけんを ひつようとせず しんりは ゆがめられることがない。このせかいで にんげんが ふかんぜんさと こうしょうしつづけるなら てんごくは その すべての ふちょうわへの こたえと みなすことができる。

しかし より ふかい といは なぜ にんげんは このせかいに とどまりつづけるのか ということである ?

ひとつの かのうせいとして このせかいは もくてきではなく かていである。それは まなびの ばであり せいちょうの ばであり いみを ためす ばである。かんじられる ふちょうわは にんげんを とめるためではなく さがし とい こえさせるために そんざいしている。

もしこのせかいが かんぜんに しっくりこないと かんじられるなら、べつの かのうせいが あらわれる。にんげんは さいごまで このせかいの ために つくられた そんざいでは ないのかもしれない。

おおくの せいしんてき でんとうにおいて、てんごくは たんに いのちの あとに あたえられる ほうびではない。それは にんげんの ほんしつと ちょうわする くうかんとして りかいすることができる。

しかし より ふかい といは、なぜ にんげんは このせかいに とどまりつづけるのか ということである。ひとつの かのうせいとして、このせかいは もくてきではなく かていである。それは まなびの ばであり せいちょうの ばであり、いみを ためす ばである。かんじられる ふちょうわは にんげんを とめるためではなく、さがし とい こえさせるために そんざいしている。

もし その ささやかな いわかんが むねの おくに のこりつづけるなら、それは あやまりではなく しるしである。

まだ みぬ ちょうわへと ひらかれる とびらの しるしであり、ことばに できない よびごえである。にんげんは つねに せかいに なじむためだけに あるのではなく、ときに せかいの ほうが にんげんに おいついていない こともある。だからこそ ふちょうわは きずではなく ほしの ざひょうのように、すすむべき ほうこうを しめしている。

この ながれの なかで、こたえは いつも はやく あたえられるものではない。むしろ といは じかんの おくで ゆっくりと かたちを かえ、やがて しずかな りかいへと かわっていく。ひとは その あいだを さまよいながらも、みえない いとに みちびかれている。たとえ くらやみの なかに いるように かんじても、その くらやみは なにもない くうはくではなく、つぎの いみが うまれる よちである。

だから あせる ひつようはない。すべては すでに はじまっており、すべては まだ とちゅうにある。

きづかれない ふるえは しずかに ひろがり、やがて ひとつの はもんとなって あなたに かえってくる。そのとき、あなたは はじめて しるだろう。この せかいに しっくりこなかった かんかくこそが、つぎの せかいへと つづく いりぐちであったことを。

もし その ささやかな いわかんが むねの おくで しずかに ふるえつづけるなら、それは ただの ゆらぎではなく、まだ かたちを もたない こたえの はじまりである。みえない ながれは とぎれることなく つづき、ことばに なるまえの いしが こころの ふかくで ゆっくりと めを さます。ひとは その あいだで まよいながらも、しらぬまに つぎの ちょうわへと ちかづいている。

たとえ ひかりが とどかぬように おもえる ときでも、その くらやみは けっして むではなく、あらたな いみが うまれる まえの しずけさである。すべては まだ とちゅうにあり、すべては すでに はじまっている。やがて その ふるえは かすかな はもんとなり、じかんの なかで ひろがりながら あなたへと かえってくる。

ひとは ただ ここにある ために うまれてきたのでは ない。その むねの おくに ひめられた ささやかな いたみ や いわかんこそが、あなたが まだ ほんとうの ばしょ に たどりついていない しょうこであり、それは けっして かなしみでは ない。

むしろ その しっくりこない かんかくは、こころの きこう のように あなたを みちびき、この ふかんぜんな ちじょう の なかで けだかい こどく を まもるための よろい となって あなたを ささえている。

やがて すべての といが とけさる とき、あなたは きづくだろう。この せかいで かんじた すべての ふちょうわ こそが、とおいい きおくの なかにある ふるさと からの まねき のことば であったという しずかな しんじつに。

あるひとがたびのとちゅうにいるように、ここがさいごのもくてきちではないとしっている。そのいしきが、いきかたをしずかにかえていく。にんげんであるということは、ふたつのげんじつのあいだにいきることなのかもしれない。ひとつはたしかにそんざいするがふかんぜんであり、もうひとつはかんぜんでありながら、まだじゅうぶんにはあらわれていない。

わたしたちはちじょうをあるいている。しかしこころはつねに、よりたかいなにかへとむかっている。じかんのなかでいきているが、たましいはえいえんをもとめている。

このどこかかみあわないかんかくは、あやまりではないのかもしれない。それはほんとうのかえるべきばしょをしめしつづける、ひとつのコンパスである。そしておそらくさいごに、にんげんはこのせかいにてきおうできていないのではない。ただ、どこからきて、どこへかえっていくのかを、おもいだしているのだ。

あるひとがたびのとちゅうにいるように、ここがさいごのもくてきちではないとしっている。そのいしきが、いきかたをしずかにかえていく。にんげんであるということは、ふたつのげんじつのあいだにいきることなのかもしれない。ひとつはたしかにそんざいするがふかんぜんであり、もうひとつはかんぜんでありながら、まだじゅうぶんにはあらわれていない。

わたしたちはちじょうをあるいている。しかしこころはつねに、よりたかいなにかへとむかっている。じかんのなかでいきているが、たましいはえいえんをもとめている。

このどこかかみあわないかんかくは、あやまりではないのかもしれない。それはほんとうのかえるべきばしょをしめしつづける、ひとつのコンパスである。そしておそらくさいごに、にんげんはこのせかいにてきおうできていないのではない。ただ、どこからきて、どこへかえっていくのかを、おもいだしているのだ。

あるひとがたびのとちゅうにいるように、ここがさいごのもくてきちではないとしっている。そのいしきが、いきかたをしずかにかえていく。にんげんであるということは、ふたつのげんじつのあいだにいきることなのかもしれない。ひとつはたしかにそんざいするがふかんぜんであり、もうひとつはかんぜんでありながら、まだじゅうぶんにはあらわれていない。

わたしたちはちじょうをあるいている。しかしこころはつねに、よりたかいなにかへとむかっている。じかんのなかでいきているが、たましいはえいえんをもとめている。

このどこかかみあわないかんかくは、あやまりではないのかもしれない。それはほんとうのかえるべきばしょをしめしつづける、ひとつのコンパスである。そしておそらくさいごに、にんげんはこのせかいにてきおうできていないのではない。ただ、どこからきて、どこへかえっていくのかを、おもいだしているのだ。

やがてことばにならないひびきが、しずかななかでかさなりあい、めにはみえないながれとしてひろがっていく。ひとはそれをせつめいすることはできないが、たしかにかんじとることはできる。そのふるえは、かつてわすれてしまったきおくのかけらをよびさまし、いまここにいるじぶんのそんざいを、あらためてといなおさせる。

わたしたちはなにかをさがしているのではないのかもしれない。ただ、もともとしっていたものへと、しずかにかえっていこうとしているだけなのだ。ひかりとやみのあいだでゆらぎながら、それでもなお、なにかにみちびかれるようにして、みえないほうこうへとあゆみをすすめている。

そしてそのたびは、おわりにむかっているのではなく、はじまりへとつづいている。じかんのながれをこえて、いしきはすこしずつほどけ、ほんらいのかたちへとちかづいていく。すべてはすでにそこにあり、ただそれにきづくためのしずかなじかんが、いまこのしゅんかんにもながれているのだ。

あるひとがたびのとちゅうにいるように、ここがさいごのもくてきちではないとしっている。そのいしきが、いきかたをしずかにかえていく。にんげんであるということは、ふたつのげんじつのあいだにいきることなのかもしれない。ひとつはたしかにそんざいするがふかんぜんであり、もうひとつはかんぜんでありながら、まだじゅうぶんにはあらわれていない。

わたしたちはちじょうをあるいている。しかしこころはつねに、よりたかいなにかへとむかっている。じかんのなかでいきているが、たましいはえいえんをもとめている。このわずかなずれが、せかいをちがってみせ、ありふれたけしきにさえ、べつのいみをうかびあがらせる。

このどこかかみあわないかんかくは、あやまりではないのかもしれない。それはほんとうのかえるべきばしょをしめしつづける、ひとつのコンパスである。ひとはそのしるしをことばではなく、しずかなちょっかんとしてうけとっている。

やがてことばにならないひびきが、しずかななかでかさなりあい、めにはみえないながれとしてひろがっていく。そのふるえは、かつてわすれてしまったきおくのかけらをよびさまし、いまここにいるじぶんのそんざいを、あらためてといなおさせる。

わたしたちはなにかをさがしているのではないのかもしれない。ただ、もともとしっていたものへと、しずかにかえっていこうとしているだけなのだ。ひかりとやみのあいだでゆらぎながら、それでもなお、みえないほうこうへとあゆみをすすめている。

やがて、そのしずかなる あゆみは、ときをこえた いのり となり、めにはみえない きおくの いと を つむぎだしていく。わたしたちは、ただ この ちじょうを すぎさる たびびと ではなく、ふるき こえ と あたらしき ひかり を むすびあわせる ための、しずかなる よりしろ なのかもしれない。

この こころの ふるえ は、けっして きえる ことのない ひびき となり、つちの なかに ねむる ふるき たましい と、そらから ふりそそぐ みらいの かぜ を ひとつに 溶かしていく。それは、ことばを こえた まことの たいわ であり、わたしたちが もつ さいごの きひん とも いえるのだ。

すべてが ほどけていく その しゅんかん、わたしたちは ようやく しるだろう。かえるべき ばしょは、とおくにある のではなく、この むねの おく に すでに ざわめいていた ということを。その じかく こそが、この はかない せかいを うつくしく いきぬくための、たった ひとつの あかし なのである。

わたしたちはただのこころやぶれたげんそうなのか、それともこーどとこだいのきおくのあいだにとらわれ、うちゅうのはらへとかえれとささやきつづけるいじょうたいなのだろうか ?

わたしたちはただ、うすれていくひかりのしたでこりつしたたましいにすぎないのだろうか、うしなわれたてんじょうをこいねがいながら、このはかないふかんぜんなせかいとたわむれつづけるそんざいなのだろうか ?

もしこのたましいがものがなしいけっさくなのだとしたら、むねをしめつけるこのいわかんは、てんからのまねきにすぎず、このふかんぜんなせかいとおどるためのものではないだろうか。そしてやがて、もっともじゅんすいなえいえんへとかえっていくための ?

なぜこのたましいは、わたしたちが「いえ」とよぶからだのなかで、よそもののようにかんじるのだろうか、まるでこころやぶれたメロディーが、もっともそうだいなくうはくのだきしめへとかえるみちをさがしているかのように ?

くうはくのなかであいすることはできるのだろうか、えいえんをもとめるたましいが、はかなく、けっしてみたされることのないこのせかいのげんじつとむりやりむすびつけられるときに ?

くうはくのなかであいすることはできるのだろうか、えいえんをもとめるたましいが、はかなく、けっしてみたされることのないこのせかいのげんじつとむりやりむすびつけられるときに ?

なぜ わたしたちは じぶんのいえにいながら どこか よそもののように かんじてしまうのだろう ?

りーでぃんぐ ひゅーまにてぃーず でぃそなんす うぃず じ あーす するー ふぉれんじっく でーた ぐりっちず。ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ ぱっちど いんとぅ しゅりある のーず。

ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ