
ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ
りーでぃんぐ ひゅーまにてぃーず でぃそなんす うぃず じ あーす するー ふぉれんじっく でーた ぐりっちず。ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ ぱっちど いんとぅ しゅりある のーず。
ここでは、じかんはまえへすすまない。ねじれ、くちはて、デジタルのゆがみのなかでふたたびうまれる。マルカンデヤ・プロジェクト・ジャーナルは、せかいのノイズのなかにひそむきょうきをなぞるためのこころみであり、すべてのきれつ、たましいのグリッチ、そしてほうかいのなかであらわれるびをきろくするきおくのほぞんこである。わたしたちはめいりょうさをもとめない。ただ、しずかなかすみをうけいれる。このアーカイブには、じぶんのいばしょでさえいほうじんのようにかんじるものたちへささげる、ささやかなねがいがおさめられている。ゼロから、はかないえいえんへとただようこどくなながれのなかで。
「にゅうりょくもなく、ざんさもなく、ただきょむのこだまのみ。」
ここでは、じかんはまえへすすまない。ねじれ、くちはて、デジタルのゆがみのなかでふたたびうまれる。
マルカンデヤ・プロジェクト・ジャーナルは、せかいのノイズのなかにひそむきょうきをなぞるためのこころみであり、すべてのきれつ、たましいのグリッチ、そしてほうかいのなかであらわれるびをきろくするきおくのほぞんこである。
わたしたちはめいりょうさをもとめない。ただ、しずかなかすみをうけいれる。このアーカイブには、じぶんのいばしょでさえいほうじんのようにかんじるものたちへささげる、ささやかなねがいがおさめられている。ゼロから、はかないえいえんへとただようこどくなながれのなかで。
「にゅうりょくもなく、ざんさもなく、ただきょむのこだまのみ。」

りーでぃんぐ ひゅーまにてぃーず でぃそなんす うぃず じ あーす するー ふぉれんじっく でーた ぐりっちず。ちじょうのバグ と らくえんのグリッチ ぱっちど いんとぅ しゅりある のーず。
Misteri Elegi abadi memori kuno dan peta kegilaan murni dari peti jurnal Markandeya Project dalam isolasi kosmik dan seni kesunyian asketisme.
製品ブランド: Markandeya Project
このたびは、もくてきちではなく、はなれることからはじまる。マルカンデヤ・ジャーナルでは、それぞれのきろくが、デジタルのざわめきのなかでゆっくりとくずれていくきおくをとどめようとするこころみである。こうちのいきづかいがいにしえのしょもつへとしみこみ、しずけさをもとめるものたちのためのひそやかないこいのばをかたちづくるさまをたどる。これは、じがきりのなかにとけていったあとにのこるもののきろく――くるいのちずであり、いしきてきで、せいぜんとしたものである。
わたしたちは、システムがほころびはじめるそのしゅんかんにこそ、しんのうつくしさがあらわれるとしんじている。「ほうかいのきろく」とは、たんなるぶっしつてきなくずれをうつしとることではなく、ゆうけいがグリッチへとすべりおち、えいえんがはかないものへととけていく、そのはざまをとらえることである。しずかでほろにがいリリシズムにかたちづくられたメランコリックなものがたりをとおして、このジャーナルはげんじつのかすかなほころびをみとどけるしょうにんとしてたたずむ。ここにはかんぺきをもとめるものはなにもない――なぜなら、かんぺきとは、わたしたちがすすんでいるデジタルてききんよくのかていそのものにあらがう、ひとつのまぼろしにすぎないのだから。
さいごに、このジャーナルにおさめられたすべてのきろくは、ひとつのげんり――かんぜんなるかいほうへとしゅうそくする。「インプットなく、ざんりゅうなく、じがない」――それは、せかいのきたいにこたえることをやめ、のこされたかんじょうのかすをしずかにとかしていくじゅんかんである。このジャーナルは、きげんへのかいきをもとめるものたちのためのすみかであり、こじんのものがたりが、しずかなきょうどうのいしきへとりゅうかされるばしょである。ひとつひとつのかけらに、こころしてふれてほしい。ここでは、テキストのおわりは、よりふかいちんもくへのいりぐちにすぎない。
このたびは、もくてきちではなく、はなれることからはじまる。
マルカンデヤ・ジャーナルでは、それぞれのきろくが、デジタルのざわめきのなかでゆっくりとくずれていくきおくをとどめようとするこころみである。
こうちのいきづかいがいにしえのしょもつへとしみこみ、しずけさをもとめるものたちのためのひそやかないこいのばをかたちづくるさまをたどる。
これは、じがきりのなかにとけていったあとにのこるもののきろく――くるいのちずであり、いしきてきで、せいぜんとしたものである。
わたしたちは、システムがほころびはじめるそのしゅんかんにこそ、しんのうつくしさがあらわれるとしんじている。
「ほうかいのきろく」とは、たんなるぶっしつてきなくずれをうつしとることではなく、ゆうけいがグリッチへとすべりおち、えいえんがはかないものへととけていく、そのはざまをとらえることである。
しずかでほろにがいリリシズムにかたちづくられたメランコリックなものがたりをとおして、このジャーナルはげんじつのかすかなほころびをみとどけるしょうにんとしてたたずむ。
ここにはかんぺきをもとめるものはなにもない――なぜなら、かんぺきとは、わたしたちがすすんでいるデジタルてききんよくのかていそのものにあらがう、ひとつのまぼろしにすぎないのだから。
さいごに、このジャーナルにおさめられたすべてのきろくは、ひとつのげんり――かんぜんなるかいほうへとしゅうそくする。
「インプットなく、ざんりゅうなく、じがない」――それは、せかいのきたいにこたえることをやめ、のこされたかんじょうのかすをしずかにとかしていくじゅんかんである。
このジャーナルは、きげんへのかいきをもとめるものたちのためのすみかであり、こじんのものがたりが、しずかなきょうどうのいしきへとりゅうかされるばしょである。
ひとつひとつのかけらに、こころしてふれてほしい。ここでは、テキストのおわりは、よりふかいちんもくへのいりぐちにすぎない。